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古戦場めぐり「戊辰戦争・三国の戦い (群馬県みなかみ町)」

古戦場めぐり「戊辰戦争・三国の戦い (群馬県みなかみ町)」

◎『戊辰戦争・三国の戦い』

「三国の戦い」(大般若塚の戦い)は慶応4年(1868) 閏4月24日、戊辰戦争の戦いのの一つで、長岡藩と官軍(新政府軍)とが激突しました。

慶応4年(1868)閏4月13日、戸倉周辺の会津藩兵を討つため、前橋・沼田・安中・七日市・伊勢崎の各藩に、出動命令が下りました。高崎・吉井の両藩兵も、沼田に集結しました。新政府軍東山道総督府は、勢ぞろいした上州諸藩連合軍(官軍)の指揮を、上野副巡察使の原保太郎・豊永貫一郎に執らせました。この二人は、政府軍としての節度ある行動をとるよう藩兵に命じました。一方の会津軍は、官軍の越後進入を阻止すべく三国峠南の大般若塚に陣を敷きました。越後小出島の郡奉行町野源之助(主水)を総大将、弟の町野久吉(17歳)を副大将として藩兵16名、それに郷土兵らを加えた総勢120余名の兵力でした。会津軍は、上州側から大般若塚に通じる狭い道に、数多くの大木を伐り倒し、大きな石を並べ、また、大きな釘を打ちこんだ厚い板を裏返して道に置き、そこに枯れ草をかけて隠すなど、障害物を設置して敵に備えていました。閏4月23日官軍(西軍)は、三国峠に向けて進みますが、雨のために予定していた進撃を一時中止し、宿営していた永井宿の村民の中から、地形に詳しい3人を選

んで敵情を偵察させます。官軍の豊永貫一郎は、偵察から戻った3人から会津軍の設置した障害物の話を聞き、夜の内に多数の人足たちを動員して密かに取り除かせたとあります。そして、三国峠の大般若塚に向けて進撃を開始しました。高崎、佐野、吉井の諸藩兵600余名は須川宿に陣を構え、高崎藩兵200名は永井宿の裏山伝いに、吉井佐野の藩兵180名は法師から、本隊は三国街道を進み大般若塚を目指し進軍し、会津軍を三方から挟撃します。

閏4月24日未明、両軍の戦闘が開始されました。『新編高崎市史』に次の記述があります。「豊永の指揮する高崎藩と佐野藩が本道を進み、その後に沼田・前橋の部隊が続いた。この部隊の一部は、途中の風反道から本隊と分かれ、般若塚の後ろに回った。そして、原の率いる吉井と佐野の藩兵が、横手の谷道から法師温泉に向かった。本道を進み、般若塚へ正面攻撃を仕掛けようとする高崎藩兵らの進軍は、困難を極めた。それは道が狭いこと、さらにこの日は霧が特に深く、30?ほど前のものも確認できないほどであった。それに加えて般若塚の手前には、数多くの障害物が横たわっていたので、それらの排除や迂回路の確保に手間取った。」ということで、会津軍の設けた障害物を知ってはいましたが、事前に取り除くことはしていなかったようです。記述はそれぞれ違っていますが、不意をつかれた会津軍は官軍の圧倒的多数に抗しきれず、兵力や火器の圧倒的な差に加え、三方から攻め立てられた会津陣営は次第に追い詰められ、三国峠の頂上まで退き、さらに湯沢宿まで退却します。翌25日には、越後小出島まで退きました。官軍が勝利をおさめて、三国峠を\xB4

袷瓦棒¹気靴泙靴拭◀海寮錣い如~馗天蛎眥垢猟錣任△訥儋邉弋箸論鏤爐靴泙靴拭5弋箸侶擦任△訥儋郤膺紊蓮∈埜紊硫馗塗雹里半里気譴心暍紊凌擁Ľ任后◀泙拭∨〇娉浩瑤悗硫爾蟶籠髎鈇砲呂海寮錣い乃樟靴砲覆辰拭〴鰻格嫉里箸いΔɕ預④任△辰慎氾珍欝箸諒茲❹△蠅泙后4鰻海膨⏉僂気譴道伽錣靴燭茲Δ任后▷慂蠱だ鑢鮴鏤法戮砲蓮〵氾珍欝箸魎泙瓩\xC63名の官軍方戦死者の名前が書かれています。どうして吉田善吉だけが葬られているのか、他の2名の高崎藩の深井八弥、堀田藩の伊島吉蔵は本国で手厚くほうむられているのでしょうか。ついでのことながら、大般若塚での死傷者はこの3名のほか、負傷者3名といいます。死傷者率は極めて低く、殲滅戦とはとてもいえません。

その後の5月21日、戸倉で戦闘が開始され、諸藩連合軍は雲井龍雄大鳥圭介の率いる会津藩兵に敗れました。しかし、会津藩兵が戸倉村に火を放って尾瀬沼方面へ退却し、戊辰戦争の主戦場は東北地方に移ることになりました。

○「三国古戦場」(みなかみ町永井)

上越国境の脊梁部をなす谷川連峰の西部、標高1244mのところに大般若塚の三国古戦場があります。三国峠には古の昔より、越後と上州を結ぶ峠道が通っていました。峠の名前をとって三国街道と呼ばれます。三国街道は高崎宿で中山道とわかれ、永井の宿から三国峠を越え、湯沢・長岡・出雲崎を経て佐渡に渡ります。古来幾多の人がこの峠を往来しました。戦国期の上杉謙信の関東出兵、江戸期の佐渡金山奉行や大名の参勤交代、幕末の戊辰戦争ではその前哨戦ともいわれる三国戦争の舞台ともなっています。

【町野久吉の墓】

永井宿から旧三国街道をたどり、国道17号線に出たところに「町野久吉の墓」があります。墓石には、「会津藩士白虎隊 町野久吉墓」とあり、戦死した日付も刻んであります。享年17歳。若すぎる死でした。古戦場である大般若塚で戦死しました。この戦いで、会津軍隊長の弟である町野久吉は、兄の制止を振り切り、蒲生家伝来家重代の名槍をふるい官軍本隊に単身切り込み、阿修羅の如く奮戦します。しかし、武運つたなく満身に銃弾を身に受け戦死しました。久吉は、会津の日新館において文武両道を学び質実剛健、特に槍の達人でした。久吉の最後の状況は、綱淵謙錠『戊辰落日』(文春文庫)に詳しいです。また、久吉の兄である町野主水は、「最後の会津武士」と称された希代の人物です。戊辰の戦役で図らずも生き長らえた後は、新政府に対して会津の名誉回復・復興につとめました。その姿は、中村彰彦氏の小説『その名は町野主水』(角川文庫)に詳しいです。大般若塚にある説明板に、「戊辰戦争と町野久吉少年」として次の説明があります(□は判読できず)。

?慶応4年4月24日□□会津軍□□、越後小出島郡奉行町野源之助(主水)を総大将とし、弟町野久吉を副大将として、藩兵40名、それに郷土兵らを加え、総勢140余名の兵力を以って、三国街道筋の大般若塚に陣を敷き西軍(官軍)の越後侵入を阻止する体制にあった。一方三国峠に追撃を開始した官軍は東山道総督巡察副使、豊水貫一郎・原保太郎率いる、前橋・高崎等の諸藩兵1200余名が永井宿に陣を構え、三国街道筋と風瓦路、法師温泉九十九曲の三方から、大般若塚に進撃を開始した。両軍相交え激戦となったが、官軍の圧倒的な多数に抗しきれず越後小出島迄引き上げ事後に備えた。町野久吉(17才)少年は日新観に於いて、文武両道を学び、質実剛健、特に鎗の達人であった。久吉少年は蒲生家伝来家重代の名鎗をふるい官軍1200名の陣地に単身切り込み 阿修羅の如く奮戦したが、ついに数発の銃弾を身に受け大般若塚小平付近で壮絶な戦死を遂げた。遺体は永井住民の手厚い供養を受け、現在の位置に埋葬されたのである?

また、説明板「会津白虎隊町野久吉少年由緒記」に次の説明もあります。

?慶応4年4月21日、本陣に二人の武士が現れて「身共は三国峠に陣を張る会津軍の町野久吉である。隊長からの言いつけで伝えるが、そなたは?」と、会津弁で言う。取次ぎに出て主婦は、なるべく主人を出したくないので、「主人四郎衛門の内儀でございますが、御用の筋は自分がたまわりとう御座います」。主人を出せと叱られるのでないかと、内心ビクビクの思いであったが、あっさりと、「左様か、では主人に伝えてくれ、官軍がきても決して泊めてはならん、もし泊めたからあの山より、大砲を撃ちかけるから覚悟するようにな、分ったな、」と要点を伝えた。じゃまをしたと外へ出た。身の丈6尺に近く、髪は大髷、眉目凛と市で清秀、一の字に結んだ口元、然しどこか童顔が残されている。筒袖の着物に□の木綿袖、紺足袋に草鞋き紙止め、涼しい目を見開いて積んである米俵を睨み、供の侍に何かささやくと、差出す鎗を2〜3回しごくと、「エイッ」と、米俵に突き刺した途端、俵は高く上げられ頭を越して後におちた。見ていた人々は暫く唖然としていたが、思いついたように拍手喝采、紅のさした顔を供の差出し手拭いで拭き□□鎗を供\xA4

謀呂垢箱□∉盖靴靴ǂ反修慧呂靴燭勝△判个胴圓辰拭7脹\xFE4年4月24日未明濃霧の中を、町野久吉を陣頭に5人の□□が突入したのである?

【大般若塚】

三国峠群馬県側に「大般若塚」があります。群馬県利根郡新治村にある永井宿は、かつて上杉謙信が関東へ向かう途中、そして長岡藩等の参勤交代の休泊地として賑わいを見せていたという宿場です。本陣だった建物は残っていませんが、永井宿郷土館に当時の写真や史料が展示されています。かつて大般若塚の戦場も、現在は三国峠を行くハイカーの途中の休憩場所になっています。中央には「大般若」と刻んだ妖怪封じの石塔が建っています。この山地で遭難して、妖怪となった霊を鎮めるために建立したといいます。「大盤若塚理趣分供養塔」として、説明板に次の説明があります。

?今の大盤若塚あたりに、妖怪が現れては、往来の旅人を嚇かして死者も出て居ると言う様な話で人々は、恐れてここを通るのも命がけであったと言われていたが、その後人々は、これは風雪等のために此の峠に於いて命を落とした人々の霊であろうと気付き、三国権現の神主である田村越後の守に、乞い願い死者の冥福を祈り且つ大盤若経の文字を小石に一字ずつ書き、尚、死者の氏名を石に刻み、経石と共に、之をここに埋めて塚となし墓の上に、大盤若塚理趣分供養塔を建てたのである?

また、ものの書物に「大般若と九十九曲り」として次の説明があります。

?大般若から南に下がると法師温泉に通じる。昔は越後から法師へ行く本道であった。法師温泉へは真下になるのでジグザグの曲がり道を開いた。当時は偶然にもジグザグの曲がり百曲がりあったそうである。大般若から、傀儡(くぐつ)が橋に亘って夜な夜な妖怪が出て、峠越えをする人を悩ますので僧侶に相談したところ、百曲がりの途は妖怪を呼ぶというので一曲がり減らし、九十九曲がりにしたと伝えられている。また、三国峠に出没する妖怪を封じるため、百曲がりを九十九曲がりにし、峠で亡くした人の供養をあわせて、大般若経を河原の小石に一字ずつ刻み、これを叺に入れて大牛八頭で運びこの地に埋め、その上に塔を建て、八人の僧侶によって法要を営んだ。これ以後、妖怪の姿は消滅したと伝えられている。?

大般若塚の前には、戊申戦争で亡くなった吉田善吉の墓があり、三国峠周辺には、伝説やら戊辰戦争の遺構にはことかかないようです。大般若塚は、三国峠に出没する妖怪変化を封じるために、法師温泉から三国街道に通じる百曲がりあった坂道を、百という数は妖怪を招くというので九十九曲がりにし、この周辺で命を亡くしたと思われる人達の名を河原の小石に記して埋め、その上に「大般若埋趣分一万座供養塔」と刻んだ塔を宝暦3年に建立しました。